第54話   「野合日記」秋保親友   平成15年11月04日  

秋保政右衛門親友(アキホチカトモ 寛政121800〜明治41871)は庄内藩軍楽師範で、四百石取りの与衛門親友の長子として鶴ヶ岡城の直ぐ西側の現在の鶴岡市家中新町で生まれた。

文政6年(1823)24歳の時藩の軍学師範に長沼流の兵法を学び文政9年免許皆伝。天保9年(1826)に供頭となり、天保12(1841)には出府して上州高崎藩の軍楽師範市川達斎に入門し翌年には免許皆伝となる。帰国後、直ぐに藩の軍学師範を命ぜられる。

弘化2年(1845)家督を継ぎ番頭、同4年郡代となり、嘉永4年(1851)より藩校の致道館において兵法の講義を行う。嘉永6年(1853)海防御用掛、翌7年海防軍制を編成し、調練及び洋式大砲の演習を行う。文久元年(1861)其の功により五十石の加増を受け小姓頭に出世するも翌2年(1862)師範を水野陣内(戊辰戦争の時、藩軍を指揮し領内に官軍を一歩たりとも入れなかったという人物)に譲る。慶応4年(1862)老齢を理由に隠居し、3年後(明治4年1871)に没する。

この様に彼の一生は幕末の動乱期に当り、若くして兵法を学び、藩軍を第一線で指導しながらその間「兵法練志録」15巻、「海防練志録」6巻を書き残している。正に多忙な一生であったが、ちゃっかりと趣味の釣りも怠らずやって居たらしい。

「名竿は名刀よりも得難し、子孫はこれを粗末に取り扱うべからず」で有名な「野合日記」
(1834~1870の間の日記)に釣りの事も書いてある。流石兵法家として、釣に対しても理論的な見方を披露しているのであるのだが、原文は漢文でなかなか読めるものではない。そこで抜粋を探した。

「竿に上中下の三品あり。其の品に名竿あり。美竿あり。曲竿あり。」

名竿は手元と浦が一体となっている物で釣り合いが取れた竿である。美竿はお手本竿となるべき竿(丹羽庄衛門の臥牛が有名)。曲竿は露や霜に会うと癖が出てくる竿。

「竿は細く長いを貴し」

 到晩近釣家相扇揺而仰黒黄二歳

 凪喜爆涛 竿貴細長 針愛V針

最今の釣師どもは一日(黒鯛)(尺前後の黒鯛)二歳(二年もの)を扇を揺す様にひらひらさせながら釣あげている。
黒鯛は荒波を喜ぶ(日本海は澄んで底まで見える。一度海が荒れると、濁りが入り岸近くに餌を求め黒鯛が寄ってくる)
竿は細く長いのが良い(お手本竿の様な細くて長い竿が良い。黒鯛竿のお手本竿では長さ7m、手元の径1.8cm以内と云う和竿では考えられない細さ、しかもその延べ竿で、黒鯛尺6寸以上、真鯛2尺、石鯛2尺等を釣り上げている。)
鉤は焼き針が良し(「垂釣筌」の陶山槁木が独自に研究開発し、弟陶山運平に伝えた焼針)


             参考図書:庄内人名辞典」、「庄内竿」その他